ひみつきちのーと

発達生がいとアダルトチルドレンを疑い、イマジナリーフレンドがずっといる私のノートです。思ったことや変な話をします。過去の話をします。自分でも変だと思ってるので、書き出して残して整理してます。思い返せば、結構ハードな人生だと感じますが気合いでやってきて今は色々克服して楽しく過ごしてます。こんな人生観でこんな人生歩んでる奴いるんだなーて感じで見ていただいたり、同じ境遇の方がいれば何か参考になれば良いなと思います。また、書いてる変な事や経験に関して、何か知ってる事があれば教えていただきたいです。

私の幼児期の話

私の過去について整理と折り合いをつけるのも兼ねて話します。

今回は、私が産まれてから小学生に入るまでの話です。

私が覚えているのは、2.3歳頃からです。

 

2.3歳頃

大抵の人と同じように両親に愛され普通の生活を送ってきたと思います。

親曰く、全く泣かない子(例え転んでも)で赤ちゃんの時は、ミルクの時間になっても起こさないといけない程、いつ如何なる時も寝ていてすごく楽だったそう。

2.3歳の頃は、何故か当時の憶えていることのどれもが天井から自身を見ているものばかりでした。今でも不思議です。自身と言うか他人の生活を覗き見てる感覚で「いいなーいいなー」ってずっと思ってました。そこから段々自身に近付く感じになって、途中で一人称視点の見え方になりました。

あの時は、玩具で遊んでいる記憶と、1つ印象深いのがあって、

塗り絵で遊んでいたら、赤ちゃんの妹が泣きました。親があやしに行ってと私に言い、ゆりかごを揺らしに行きました。その後、塗り絵をしに戻ったら妹が泣く、あやしに行く、塗り絵をしに戻ると泣く、あやしに行くの繰り返しでなかなか塗り絵が出来ないってのですごい嫌だったのを覚えてます。

そのよく覚えてる記憶も、何度思い返しても天井から一様を見ているんです。

幼少期の私は、よく思い出に浸ると言いますか、どんな事でも忘れたくないから思い返すようにしてました。

その時でも、天井からの視点でした。当時は、ホームビデオを見てた記憶なのかなって思ってました。小学校高学年くらいでやっと"天井にカメラなんかつける訳ない"ってなって、じゃあこの記憶は何?!?!ってなって今でも不思議です。

 

4.5歳頃

認識力も上がる年。覚えている事も沢山あります。ここからの記憶は一人称の視点と天井からの視点とごちゃごちゃです。

ちなみに、解離感はものごころついた時からあって、そのためか当時は気にしていませんでした。

 

母親の教育

母親は、いわゆる教育ママで過干渉。飴と鞭を使い、出来ない事があったりほんの少しでも良くない事をすると、怒鳴ったり引っ叩いたりしていました。初めは、頭を平手打ちされてましたが、途中で、頭を叩くとバカになるらしいから次からは頬を平手打ちするわって謎宣言されました。意味分からなすぎて私は恐怖を感じました。

また、母親は思った事をはっきり言うタイプ。感情がストレートにでる性格です。

当時はそれが「人」として普通なんだと思っていたし母親がそんな性格なんだとは知らなかったから、ただただ自分が正しい事をしていないから普通じゃない事をしたからだと思っていました。

[周りの人とあまり関わらない歳の子どもだから当たり前で、この時(5歳までの基盤が出来る歳)での大人(特に親)の接し方次第で今後の人へ印象や信頼が大きく左右されます。それは保育の話としても基本的な所であるし、黒歴史ノートの最後のページを見た人は分かるかと思いますが私が身をもって体感しました。]

 

母親の謎教育で1番よく覚えているのは、ひとつ、ふたつ、みっつの数え方を覚えるために、"とお"まで言えるまで寝かさないと言われ、眠い中、言えるまで唱えさせられた事。

いつまで経っても言えない私に、母親は1ミス1ビンタのルールを儲けだします。

夜、眠い中、私は半泣きになりながら唱えてました。当時は、地獄を見た気分だったし、大きくなって思い返す度におかしいやろって思います。

ちなみに、全く覚えられず小学校2年生頃になって、運動会の玉を数えているうちに覚えてました。

 

 

問題児な妹

当時、妹はよく癇癪を起こしていました。

私の妹は、自閉症スペクトラムアスペルガー症候群の併合のグレーゾーンだと聞いてます。

ADHDもあったのかな??

診断されるのは、十数年後になりますので、まだ妹が発達障がいだと分かっていない状態ではありますが当時から症状が大発揮されていました。なんなら、保育士から怪しいと言われていたみたいです。だから親も薄々勘付いていただろうに何故そのまま突っ切ったのか…。

後々書く事になりますが、それで私も当人も苦しむ事になります。

 

妹が良くない事をしていたり、私に嫌なことをしてきたりした時は、言葉で伝えても聞かないし辞めない、分かりやすく怒っても一緒です。

私の主張がエスカレートした所で泣かれて、結局私が怒られて終わりです。

私が怒られて落ち込んでいたりしても、お構いなしに...というかわざと煽っているかのようにわざわざ私の近くで大きな声で楽しそうに歌い遊びだすなんて事もよくありました。

幼いにしても、話なんか通じる相手ではありませんでした。

 

それなのに何故、発達障がいだと分かっていなかったかと言うと、親にはバレなかったからです。

共働きだったからか妹の面倒をほとんど私が見ていて親は、妹が演じる良い子の部分しか知らないといった状態でした。

実際はどうか知らないけど、親と妹が遊んでるところ、2人でコミュニケーションをとってる所を私は見たことがない。

 

先ほど書いた通り、母親は怒らせると躾と称して暴力を振るいます。発達障がいの子が良くやりがちなのですが、自身を守るためなら、平気で嘘を吐きます。その場しのぎで良い子の振りをします。よくあったのは、玩具を片付けるべき時に、私だけ片付けて、妹は遊び続ける。親が来た時だけ妹は、片付けをし私に片付けてと言うなどして、初めから片付けていたように装ってました。親はまんまとそれに騙されてきてました。

私は心の中で、妹の事を"猫被り"と呼んでました。

 

後、妹を持つ人なら、沁みるほど分かると思うのですが、自分の都合が悪くなると嘘泣きをします。

これで綺麗に大人を騙していました。

周りから見れば、弱い者いじめしているように見えるのでしょう。

それに加え、当時の私は気が強い方で何されても悲しんだり怖気づく人間ではありませんでした。

 

[妹]心ない言動をする→[私]怒る→[妹]泣く→[親]一連の流れを見ていないので私に怒る

 

こんな流れがいつも出来上がってて原因がどうであれ、全て姉である私が悪く扱われ怒られました。

妹はそれに味を占め、小学校高学年入るくらいまで嘘泣きを続けていました。

妹が大きくなるにつれ、周りの人たちも流石におかしいと感じ、嘘泣きだと相手にされなくなってから泣かれることは減りました。

 

妹から嫌な事をされた時、母に相談したことがありました。

でも信じてくれなかったのかなんなのか、この歳なら当たり前にやるやら、無視しときなって言われて軽くあしらわれるだけでした。

もやもやしました。

もう当時から親にも通じないと信頼があまりなかったので、妹のことで親に話すのは辞めました。

周りが私が悪いと言うのなら「そうですか」って感じで居ました。

またそれから、無視をする事で妹の嫌がらせがなくなる事が分かり、私は嫌な事をされると無視するようにしました。

 

妹のことは当時からずっと大嫌いですが、妹は私の事が大好きらしい。

でも、何かあれば私に「大嫌い」と言ってた癖に大人の前だと「大好き」とか言ってきて気持ち悪かった。

 

妹は、当時のことをほとんど覚えてないらしく、私に読み聞かせをしてもらったり字を教えてもらった時のことと、親にめためたに殴られてる所の2つしか覚えてないらしいです。

 

典型的な駄目な父親(だったらしい)

私の父親は、あまり子育てに参加しないタイプ。家にいる時はゲームばかりしていました。

だから父との思い出は特にありません。

母とは別に、父から不快な思いをされた事がなく、それ以前に関わる事が少なかったので私にとって父親は可もなく不可もなくと言った感じでした。

夫婦仲が悪いというのは当時から知っていました。母の父に対する愚痴は、年々増えてました。

何度か父と母が喧嘩なのか真面目に話している事も知ってました。

私は、父が浮気したんだ!と勝手に思ってました。(実際は知りませんが)

一度、妹と一緒にいる時に真面目な話し合いに遭遇してしまい、妹は騒ぐだろうと思い、言いくるめて直ぐに2階へ上がったのをよく覚えています。

 

父のよく覚えてる良い思い出は2つあって、

1つは母の誕生日にパスタを料理した事。

初めて料理をしている父を見ました。素敵だし、今まで食べた料理の中で1番美味しかった。

1つは私の誕生日になると、プレゼント買ってあげると私を連れて行ってくれた事。

私は当時から、欲しい物すらも人の目を気にして要求出来ない意見を言えない子だったのですが、(そもそも意見を主張することを知らないまであった)

自分の欲しいものをしっかり選んで買ってもらった誕生日プレゼントはこれが初めてでした。

特に服を買ってもらった時の事はよく覚えている。この時も「なんでもいいよーアンの好きなの選べば良いんだよー」って私の話を全部聞いて肯定してくれた。その時は父に気を使っていてなんでも良いって言われて戸惑ってて、嬉しいとか思う状態じゃなかったけど、思い返す度に良かったなーって思う。

 

 

家族への信頼

ありませんでした。

母も妹も言葉と行動が矛盾している時が多々ありました。

妹は言わずもがなです。

母に関しては、凄く記憶に残っている事があるのですが

庭の園芸のために、花を買い明日の朝に一緒に植えようと約束をしました。

私は凄く楽しみで、自分で朝起きてきたのですが、階段を降りると母がもうほとんどの花を植え終わっている所でした。

母に朝早いねと言われ、花を植えるのに起きて来た事を伝えると、昨日の話は忘れられていたようで、なんならもっと早く起きないとと言われてしまいました。

これが初めて約束を破られた時でしょうか。

ショックだったんでしょうね。今でも鮮明に覚えています。

 

小さな事ですが、こう言う積み重ねで人への信頼や期待は簡単に崩れていきます。

気にしすぎ、繊細すぎと思った事は何度もありますが、やはり社会人になり常識を知ってる今でも、おかしかったよなって思います。



家出したかった

当時から他人の家と比べ羨ましいと思うことがありました。子どもあるあるですよね。

 

家族でドラえもんを見ていた時、のび太くんが家出をする話でした。のび太くんが夜な夜な家を出た時に、母が「こんな子嫌だ。」とのび太くんを全うに否定し私に「アンはそんな事しないよね?」と言ってきました。

適当に「しない」と返したけど、のび太くんに同感しまくってて気持ちの中ではめっちゃ家出したいと思ってるっていう記憶がありました。

ほぼ洗脳に入ってそうな当時でも、この家が嫌だったんだなって。

 

また、実際に家出しようとした事があって

当時、悪い事をしたら家から出されてたんです。(この時代だと普通にあることで、周りの家庭でもやっていました。)

実はあまり嫌じゃなかった。暇だなってくらいで恐いも何もなかった。

それで、そのまま何処か行こうかなって、あわよくば別の場所で暮らせないかなって薄々思うようになってある日に、ドアの前から離れ遠くへ歩いて行ったの。

すぐに見つかって連れ戻されたけど、あれから外に追い出されることは無くなりました。

 

HSP気質だったみたい

今でこそよく聞くHSP、当時はHの字も聞かなかったわけですが、最近snsなどで紹介されてるの見た時に昔の自分に当てはまり過ぎていました。

大きな音が苦手でした。大音量のテレビや人の声、掃除機の音。恐いけど周りが平気だから我慢してました。

そして、人が怒っている所、泣いている所が駄目でした。それが例えドラマやアニメの演技でもです。

テレビや映画で、誰かが感情的になるシーンは辛くなるのでまともに見れませんでした。

子ども向けアニメでも戦闘シーンはとばして見ていたりするほどです。

アンパンマンのシリアスシーンでさえも苦手でした。

今は、フィクションだと割り切れるし違う子が前に出たりするので平気ですが、ニュース番組やsnsでの突然くる悲報は未だに辛くなるので見れません。

その他、周りの顔色、声色、動き、音、感情にすごく敏感だったりで思い返すとザ!HSP!て感じでした。

私がその気質じゃなかったら、あの二人の言動も華麗に避けられたのかなって今もずっと思ってます。

 

人前で泣きたくない

よく泣く妹を見てますからね。同類になりたくなかったのでしょうか。

シンプルに、当時の性格が負けず嫌いで強がりだったからって言うのもあります。

泣いたところで何になるんだと人を不快にさせるだけだから泣く意味ないよなって冷静に思ってた事もあります。

 

保育園であった嫌なこと

花があると母はよく、それで花冠やネックレスを作ってくれました。

私の住んでた所は田舎なので秋になると彼岸花がそこら中に咲きます。

彼岸花も綺麗なネックレスが作れる花で保育園へ送ってもらった際に、近くに咲いてた彼岸花でネックレスを作り私につけてくれました。

それが凄く嬉しくて私の母との良い思い出の1つです。

[だから私は花が好きでした。]

で、そのまま登園します。

綺麗なネックレスだから褒めてくれるだろうと思いきや、友達が私のつけてるネックレスを見るなり、この花は毒だから持ってたら駄目だとと言われてしまいます。

困惑しましたよね。

私が個人的にしたのではなく、あの教育者であるトップ•オブ•ママおすすめの彼岸花のネックレスですからね。理解出来ずにいると、まあ色んな子から責め立てられました。

挙句に、先生が参上し特に納得できる説明もせずに「ゴミ箱にネックレスを捨てなさい」と言われ、えぇ...てなりながらこの手で捨てさせられました。

親に作ってもらったネックレスを悪く言われた挙句に、捨てさせるなんてショックですよね。

今、思い返しても保育士がなんであんな対応するねん!って思います。

せめて、預かっとくとかにして欲しかった。枯れるにせよ当時の私にとっては宝物だったのに。

 

お人形遊びが好きだった

1人遊びの時は、お人形遊びをしていました。

むしろお人形遊びは、1人遊びじゃないと嫌でした。

シルバニアもありましたが、抱えれるサイズから当時の私と同じサイズのぬいぐるみとのお人形遊び?が私の中で印象深いです。

シルバニアとは違いぬいぐるみは、遊びと言うよりか"ぬいぐるみと"話をしたりごっこ遊びをする感覚でした。

話をする時は、声に出すのではなくテレパシーみたいな感じで心の中でやります。声に出すのは恥ずかしかったのでしょう。後、聞かれたくも見られたくもなかった。

家族には話せない事、愚痴や嬉しかった事などたくさん話しました。

親代わりでもありました。

寝る前に親とするおやすみのハグを親がしてくれなかった時は、代わりにやってもらいました。私が当時無意識に感じていた寂しさをぬいぐるみ達が埋めてくれました。

家族でした。

私のイマジナリーフレンドの始まりは、このぬいぐるみからの派生なんじゃないかなって思います。

 

この時既にイマジナリーフレンドがいた

この時からというか物心ついた時からイマジナリーフレンドはいた気がします。

誰かの声が聞こえるのが普通でした。自身の意思で動くこともありましたが、その声の指示で動くことがありました。それが、あのぬいぐるみ達からなのかは分かりませんが、何人かいた印象です。

聞く限りだと、わんこちゃん、お嬢様、大佐ちゃん、ルイ?あたりがいたのかな。